身近であることもメジャー競技の条件? -1

 あるスポーツがメジャー化するには、スターの存在が必要なのは確かだろう。

 でも例えばノルディックスキーの場合、荻原健司原田雅彦が五輪で団体金メダルを取ってもメジャー化しなかったのは、キャラが弱くてスターにならなかったとか以前に、スキージャンプという競技がスポーツとして身近でなく、縁遠いことが理由かもしれない。

 例えば芸能界でも、欧米では一般的に、完成されたパフォーマンスやカリスマ性を求め、賞賛されるが、日本人は、特に近年のアイドル文化やポップカルチャーは、未成熟であるが故の親近感や共感性が重視され、愛される傾向が強いと感じる。

 欠けていることへの愛着や情感というのは、いわゆる侘び寂びに通じる感性であり、欧米とは異なる日本独自の価値観に根差すものといえるかもしれず、それがスポーツにおけるスターにも、さらには競技そのものにも求められるのかもしれない。

 たとえば体操。かつての日本のお家芸であり、今また金メダルが期待される人気競技だろう。それでも、選手のプロ化が進まず(内村航平だけ)、短い選手生命でセカンドキャリアが難しいというマイナーアマチュアスポーツ共通の悩みから脱していない。

 宮川紗江選手へのコーチの暴力や、彼女がパワハラと訴える問題をみると、協会や指導者全体に昭和の体育会的精神が染みついてるからというのが大きそうだが、もしかすると技が高度化しすぎて身近さが薄れてきたということもあるのかもしれない。

 超人技をみるのが楽しみなのではあるが、超人すぎてもついていけないというか。トランポリンや高飛び込みに、フリースタイルスキーエアリアルもそうだし、ハーフパイプもちょっとそうなりつつある。モーグルのエアも、これ以上進むとやばいかも。

 世界的には、シルク・ドゥ・ソレイユが体操などのトップアスリートのセカンドキャリアになっている。超人化した技は、競技としてよりもエンタテインメントとしてこそ輝きを放つということではないか。日本でも、テレビ局と競技連盟と劇団四季木下サーカスとでタッグを組めば、結構、興行化できるのかもしれない。(続く)